アングラモ⁠グ⁠ラ⁠のも⁠ぐ⁠らまる

〈アングラモグラのもぐらまる〉は、その名のとおり、アンダーグラウンドで暮らすもぐらである。もっとも、地底に棲んでいるのだからアンダーグラウンドなのは当たり前のことで、わざわざ二つ名にするようなことでもないのだが、もぐらまるはこの呼び名をたいそう気に入っていた。響きがよかったのだ。アングラモグラ。声に出すとなんだか偉くなったような心地がする。相手がいないので声に出す機会もないのだけれど。

もぐらまるは自分のことをごく普通のもぐらだと思って暮らしていた。しかし、じつのところ、もぐらまるはモグラではなかった。フクロモグラという、モグラとは縁もゆかりもない有袋類で、カンガルーやコアラの遠い親戚にあたる。たまたまモグラと同じように地中で暮らしているうちに、よく似た姿かたちになったというだけの話である。けれど、もぐらまるにとってそんなことはどうでもよかった。仮にカンガルーの親戚だと知らされたところで、跳ねようがないのだから困る。

もぐらまるは真っ暗な地の底でひとりきりの生活を送っていた。仲間に会うことはまるでなかった。親離れする前はお母さんやきょうだいたちといっしょに暮らしていたが、もぐらまるが仲間と顔を合わせたのはそれが最後だった。みんなは今頃どうしているだろう。ときおりそんなことが胸をよぎったが、考えたところでどうしようもないので、もぐらまるはまた土を掻いた。

仲間に巡り合うことがないかわりに、地中には奇妙な生き物たちがひしめいていた。
半透明の体の内側に、臓物がぬるぬると蠢いているのが透けて見える、アノマロカリスのようなムカデ。その体躯はもぐらまるの胴回りほどもあり、無数の脚がさざなみのように律動していた。また、モンゴリアンデスワームもかくやという巨大なミミズは、地中をゆっくりと横切っては、通り過ぎたあとにぽっかりとしたトンネルを残していった。
もっとも、もぐらまるにとってそれらは奇妙でもなんでもなかった。生まれてこのかた目にしてきたものがそれなのだから、ごく普通の姿かたちに思えた。もぐらまるはそいつらをたべていた。半透明のムカデは弾力があってたべごたえがあったし、巨大なミミズはやわらかく、ほのかに土の風味がした。たべるものに困ることはなかった。仲間もいないから縄張り争いが起こることもなく、穏やかで、つつがない暮らしであった。

穏やかであるということは、裏を返せば、刺激がほとんどないということでもある。
もぐらまるは退屈しのぎに考え事をするようになった。なぜ土は暗いのだろう。あの巨大なミミズにも心というものはあるのだろうか。考えていると時間にわずかな凹凸が生まれて、いくらか気を紛らわせることができた。いつしかもぐらまるは、考え事をすることが暮らしそのものになっていた。

ある日、もぐらまるがいつものごとく何か考えていると、不意に、かつてお母さんが話してくれた地上のことを思い出した。
地上には「お花畑」というところがある。頭がくらくらするほど色彩豊かな「花」というものが、あたり一面に咲き誇っている。お母さんはそれに見惚れていたところ、途方もなく大きなフクロウに襲われ、命からがら逃げてきたのだという。
──けっして地上に出てはいけないよ。
あたりまえのこととして忘れかけていたお母さんの教えが、改めて思い出された。

もぐらまるは「お花畑」というものがどんなものか想像しようとした。
しかし、何も浮かんでこなかった。
もぐらまるは唖然とした。そういえば、自分はいつも考え事をするとき、言葉だけでものを考えている。視覚的なイメージによって何かを思い描いたことが一度もなかった。それも無理のない話で、もぐらまるはほとんど何も見えない暗闇のなかで暮らしているのだから、そういうものに馴染みがなかった。とはいえ、地表付近のわずかに日の光がにじみ届くところまで上がっていけば、ごま粒ほどの小さなお目々を使って、かろうじて色彩の気配のようなものを感じ取ることはできた。
けれど、一度も地上に出たことのないもぐらが、お花畑を想像するだなんて、どだい無茶な話である。

しかし、もぐらまるはあきらめなかった。〈アングラモグラ〉の名に恥じぬ風変わりな奴だったのだ。
生涯をかけて、自分の頭のなかに色とりどりのお花を咲かせてやろう。そして念願がかなった暁には、地上に出て、答え合わせをしよう。

それからというもの、もぐらまるは来る日も来る日も鍛錬を積み重ねた。
まず、視覚というものに馴致する必要があった。もぐらまるは地上に顔を出したい衝動をこらえながら、地表付近の明るい土のなかにとどまり、さまざまな色彩の生き物をじっと眺めた。赤みがかった小さなヒル。黒光りするヤスデ。黄色い、指の先ほどの細いムカデ。もぐらまるはそれらをたべる手を止めて、ごま粒のお目々でひたすら凝視した。

だが、色を見ることと、目を閉じてその色を思い描くこととのあいだには、もうひとつ別の、深い隔たりがあった。目を閉じると、いま見たばかりの色がどこかへ逃げてしまう。言葉だけがぽつんと残り、肝心の色そのものは手のあいだからすり抜けていった。
それでも何百回と繰り返しているうちに、あるとき、暗闇のなかにかすかな赤い滲みのようなものが浮かんだ。一瞬で消えたが、もぐらまるの全身を歓びが駆けぬけた。

さらに、お花畑のような複雑な情景を組み上げるとなると、いったいどれだけの歳月を要するのか、見当もつかなかった。もぐらまるは「花」を見たことがないから、自分なりの「花」を一から拵えなくてはならなかった。赤いヒルのぬめりから赤を借り、黄色いムカデの鮮やかさから黄を借りて、それらをひとつの形にまとめようとした。はじめはミミズに足が生えたような花だった。われながらひどいものだと思ったが、地上の花に似せる必要はないのだからかまわなかった。

三年あまりの月日が過ぎた。もぐらまるはずいぶんと老いぼれていた。毛並みはくすみ、爪はすり減り、土を掘る力もだいぶ衰えていた。ごま粒のお目々もいよいよ頼りなくなっていた。

しかし、ついにその日が来た。
目を閉じると、暗闇のなかに光の粒がひとつ、ふたつと灯りはじめ、みるみるうちにふくらみ、かたちを結び、開いた。一輪、また一輪と増えてゆき、やがて視界の端まで色とりどりの花が咲き乱れた。地上のどこにも咲いていない、もぐらまるだけのお花畑だった。

もぐらまるは鼓動を抑えながら、地表へ向かって掘りはじめた。

ぱさり、と土がくずれ、光が差し込んだ。
もぐらまるは地上に這い上がった。

そこには、ひび割れた地面がどこまでもつづいていた。草の一本も見当たらなかった。遠くのほうに、灰色の途方もなく大きなものが幾重にも折り重なり、黄色い粉を厚くかぶっていた。それが何であるかは、もぐらまるにはわからなかった。
空を見上げると、くすんだ黄土色が一面に広がっていた。鮮やかな黄色い雲がゆるくたなびいている。見つめていると目の奥がじんと痛んだ。
鼻をひくつかせた途端、嗅いだことのないものが粘膜を鋭く突いた。思わずくしゃみが出た。

花は、どこにもなかった。

茫然と立ち尽くすもぐらまるの背後で、不意に空気が裂けた。
何処からともなく飛来した、真紅に染まった巨大なバッタだった。もぐらまるの何倍もの体躯で、後脚の棘がぎざぎざと光っていた。
一瞬だった。もぐらまるはバッタの顎に挟まれ、そのまま空へ攫われていった。

もぐらまるはわななきながら声を絞り出した。
ぼくの心のなかには、こんなにうつくしいお花畑が広がっているんだ。だから、どうかぼくをたべないでおくれ。
しかしバッタにもぐらまるの心中が覗けるはずもなく、「お花畑」なるものがどんなものかもわからなかった。

噛みちぎられた。
涙の一滴がもぐらまるの頬を伝い、風に乗って、黄色い空へ散っていった。

意識が遠のいていく。
もぐらまるの脳裏には、色とりどりのお花畑が広がっていた。
もぐらまるは自分だけのうつくしいお花畑の夢を見ながら、その夢のなかへと吸い込まれるようにして、消えていきました。